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ボクの故郷、徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)は県内、吉野川真ん中あたりで、都会に出るというと徳島市だった。香川県に出ることはほとんどなく、意外に遠い場所だった気がする。「香川」というと記憶が曖昧だけど丸亀(?)であって、家族がウチワを仕入れに行くとき何度かついて行った。ウチワの注文をして、名を入れる、とかいろんなことをやっている間、まだ子供のボクは、瓦煎餅とかまんじゅうでお茶を飲むのが楽しみだった。ウチワ屋のお茶は苦いけど軽くて口の中がすっきりした。これが、碁石茶だった気がする。碁石茶は高知県大豊町などで作っている国内では珍しい発酵茶で、高知県ではなく香川県海辺や離島で飲まれていた。海水浴で何度か行った、香川県海岸寺の海の家で飲んでいたお茶も同じ味だった気がする。ちなみに父は職人だったので、他にも何軒か回った。そのときのお茶は我が家と同じ緑茶で、ボクにはジュースが出た。ジュースとお茶をかわりばんこに飲むの見た、得意先のオバサンに笑われたりした。曖昧模糊で、はっきりしないけど、「めも」なのでお許しを。塩飽諸島など離島、漁師さんが飲むものという話があるが、このような家内工業の場や海の家などでも飲んでいたのだと思う。ちなみに碁石茶らしきものを意識したのは、サンテレビ(?)の伊丹十三の番組でだと記憶する。四国の山間部を歩くという番組だった。新聞のテレビ欄まで見て、合わせて帰宅していたくらい面白い番組だった。もしも録画が残っているなら、もう一度見てみたい。

「茶がゆ」を初めて食べたのは、学生の時で、夏真っ盛りの晴れた日、多武峰談山神社(奈良県桜井市)から桜井駅まで歩いた、その途中で、だ。今、地図を見ると崇峻天皇陵のあたりだと推測する。当時は文献地図帖を持っての旅で、一本道を下りながら、ゆるやかに遭難したのだ。あのとき、農家らしい家の方が、大量の水と茶がゆを恵んでくれなかったら、死んでいたのかも知れない。当時は熱中症という言葉はなく、熱射病だった。あのときの水のおいしかったことと、梅干しと茶がゆが喉を通ったときの感覚は今でもおぼえている。以来、「茶がゆ」は夏の味である。さて、遅摘みの茶をしんなりさせて、釜で煎るタイプのお茶は、西日本各地にあるが、不思議なことに、ボクが勝手に「茶がゆ圏」としている奈良県、三重県西部、和歌山県のものは独特である。焙じる前の製法はわからないが、例えば同じ番茶と言われるものでも島根県伯太町(現米子市)のものとは似ても似つかないものだ。茶がゆ圏の番茶は苦味が強くどっしりと重い感じがする。伯太町の伯太番茶など限りなく軽く優しい味である。この、「茶がゆ圏」の古いタイプの番茶を探す旅がしてみたい。今回はその崇峻天皇陵近くで教わった通りのやり方で茶がゆをたいてみた。濃く煮だした奈良県十津川村の番茶に洗わない米を投入してたく、という奈良県ではもっとも一般的なやり方である。洗った米を投入すると、さらさらと軽い味になるし、茶色に染まる米粒の色も淡い。洗わないで入れると濃い茶色に米粒が染まり、かゆ自体が重い味になる。非常に濃く入れた茶の苦味が口にも喉にも残るが、この苦味が夏バテの薬なのではなかろうか。三重県伊賀市で会った赤目(三重県名張市)出身の大正生まれの女性は、「茶がゆ」は、「さいら(サンマ)」の丸干しと食べることが多かったという。当時の丸干しは木槌でよく叩かないと硬くて食べられなかったといが、この日合わせた三重県尾鷲市、『丸清北村商店』の丸干しは硬干しではあるけど、そのまま焼けば食べられる。

数量的にはわからないけど、浅いところの泥を網ですくっても貝が入ってこない。護岸を見ても貝類があまり見当たらないのはなぜだろう?大量についているはずのムラサキイガイがあまりいないし、昔、アサリ漁をやっていたことがあるという人に聞くと、タマガイ科の貝がいないという。「あけみがい(イソシジミ)」はもっと見ていないらしい。マガキの付着も少ない気がする。鷲津方面で落ちていないかと探したタマガイ科の巻き貝はやはり見つけられなかった。今回、落ちている貝殻の中でヒラフネガイも探したけど見つからず。今回は慌ただしくて、じっくり見て回れなかったが、次回は車中泊しながら水辺をじっくり観察したいと考えている。それにしても浜名湖にたくさんいたタマガイ科などなどは、どこに行ったんだろう。今の浜名湖は、どことなく不気味である。今回の参院選でひとりも自然保護や温暖化を叫ぶ立候補者がいない。生き物を見ていても明らかに危険な状況にある、と思うんだけど、自然保護は金にならないからやらないんだろうな。

我が家の常備菜(作り置きの料理)、ヒジキ煮を作ってつまみ食いしながら、高野豆腐に芽ヒジキは合わないな、と思い、でも長ヒジキがなければ、これはこれでいいじゃないの、幸せならば♪ という気分になる。ハシキンメ稚魚(だしの素で充分)で作った煮干しだしが染みた高野豆腐がとてもうまいし、芽ヒジキだって、単体で食べるとおいしい。あんまり好きではない煮たニンジンだって、大人なのだから食べる。これに甘口の日本酒があるといいのだけど、昼酒をやる人生の隙間がない。地味なこと、目立たぬ」とをこつこつやるのは大変なのよ、と独りごちる。だいたい最近、甘口のおいしい日本酒がない気がする。さて、家庭料理は料理の最高位だと思っている。もちろん家庭がない人にとっても家庭料理(料理を作ること)は大切である。料理を作ることは、ケ(普段)を大切にするということだ。今や国内中がお祭りばっかりやっている。動物は危険が迫ると躁状態になることは、馴染みの猫と遊んでいるとわかる。この国、総理大臣から何から何まで頭が祭気分(躁状態)で、危ないんじゃないのかな? て思うほどだ。料理にもっと踏み込むと、能書きの多い料理ほどおいしくないものである。日常何気なく作る料理の方がいい。ちなみに祭がいけないのではなくて、ケがあるからハレ(特別な日)があるという重要な点が抜けているといいたいだけだ。ケがないと高価な料理のよさはわからない。贅沢を楽しむためにこそケを大切にすべきである。

12月2日、舵丸水産に京都府舞鶴市からメジナが来ていた。舞鶴は丹後半島、若狭湾の京都の集積地である。今季初の日本海メジナは京都府産ということになる。日本海でメジナ揚がり始めたら冬である。季節を感じるために水産生物を調べている。急激に消えて行く日本列島の季節だけど、まだまだ季節を感じる魚はいる。今回はあまりにも多くの魚を抱えているので、初メジナを買うわけにもいかなかったが、次は買おう。そして、今年も、日本海では荒天のメジナに悩まされるときが来た、のだ。漁師さんへ、少しでも高値でメジナが売れることを祈りたい。■舵丸水産は、一般客に優しいので、ぜひ近くにお住まいの方は一度お寄り頂きたい。

〈お母さんは、子供にどんどん自己流のヘンなものを食べさせるべきだと、私は思う。〉『木皿食堂』(木皿泉 二葉文庫)が、好きで、この部分だけなんども読み直している。すごいな、とか、いい言葉だな、とかではなく、本当にそうだと思っているためだ。食通とかこだわりのある人は、ボクには異星人に思える。たぶん冥王星よりも遠い星の人、M78星雲のもっと遙か彼方の人かも知れない。別にいたとしても気にしなくていいと思うけど、そんな異星人に惑わされず、自分自身に立ち返れといいたい。自分自身が本当に好きなもののこと、本当に知っているんだろうか?だいたいボクの嗜好、好みはコロコロコロとローリングストーンなのだ。ぜんぜん一定の好みというか“好き”がない。辛いのが好きなときがあったが、今現在はちょっとだけ辛いくらいがいいし、煮つけは去年まではあっさり味つけていたのに、今年はこてっこってなのである。みりんと砂糖を両方使うと、たとえばみりんを2倍入れるよりも甘くなるので両方使いしている。去年のボクが食べたら、甘過ぎらいバカヤロウ! と思うくらいに甘い。最近、魚屋に言わせると、煮つけを敬遠してカレイが売れないそうだ。お客に聞くと上手に作れない、と答えが返ってくるという。バカ言ってんじゃネー。それでいいのだ。煮つけは失敗してこそ上手になる。上手にならなくても失敗は人生の糧になる。食べられないくらいまずい魚の煮つけを作れる人は、逆に考えると料理の天才ではないだろうか。木皿泉ではないが、ヘンな料理の方が心に残る。心に残る料理を作ろうぜ。
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