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ナイフに縁はないけど、ナイフについて。2025年2月。真冬の南会津では市街地にしか行かなかったのに、いろんなことが起きた。数時間の内に膝上までの降雪があったためで、四国生まれのボクには畑の中の一軒家に行くのさえ、試練だった。そんな雪の中でちょっとしたことがあって、ほんの数十分共同作業をした名前も知らない人に、ポケットにあったナイフを差し上げた。ボクは都内に帰るけど、そのまま南会津に数日いるというからだ。このときナイフを持つ意味を知った気がする。フィールドワークに出るときには必ずナイフ2本は持っていく。主に漁港や競り場、防波堤釣り、淡水の釣りで使うが、刃物好きではないので、例えば勝手知ったる小田原には持っていかない。会津で差し上げたものは岐阜県の山間部のホームセンターで買った黄色に近いオレンジのもの。値段は1000円以下だったはず。今回買ったものは青緑色で、少し高いけど体調不良で買い物に行けないので仕方がなくアマゾンで買った。ナイフにはまったくこだわりがないけど、絶対黒や渋い色は買わない。頻繁に使う人は目立たなくてもいいし、本格的なものの方がいいけど、ボクのように非常にアマチュアで、山に入ることもなく、ときどきしか使わない人間にはなくしやすいのもあって目立つものの方がいい。以上は今のボクのナイフノート。ときどき改訂していく。

今年とれないはずのサンマが豊漁なのは、なぜ? なんて専門家は考えている気がする。たぶん漁業の予測はつかないのに予測している、想定できないのに想定外という専門家が大好きな言語が飛び交いそうで恐い。きっと、予測外だったときはなぜ、予測が外れたのか? に予算を使う気がするが、これこそが税金の無駄遣いだろう。漁業の予測とか資源学は一般人にはまったく意味がわからない。科学と言えるものなんだろうか?しかも10月下旬になってもサンマは、ほぼ北海道産なのだ。たぶん鮮サンマ(そのまま流通)だけではなく、冷凍用サンマも加工し始めているのだろうけど、今年の鮮サンマっていつまで続くんだろう?ちなみにボクは時季にしか魚は食べない主義なので、冷凍サンマは気になることがあったときにしか買わない。冷凍保存するくらいなら、できるだけたくさんの個体を南下させてやってくれないかな。なんて水産業のことは、まったく考えないで思ったりもする。

専門分野のない人はあやしいというか信用できない。水産学の方に話を聞いたら、それは高度成長期に出た、水産学の書籍の内容そのものだった。水産学は日々、変化しているのに、それはないだろう、と思ったら、水産学は片手間らしい。魚類に関しては魚類学者に聞く、貝に関しては軟体類学者に聞くが、曖昧な人に聞いても仕方がない。だいたい、なんでもかんでもやれる、とかやっています、という人には会いたくない。宇宙船ビーグル号のようなこともあるので総合科学という分野もあると思うけど、それも総合科学という分野なのだと思う。ボクにも専門分野があって、人と水産生物の関わりを調べている。文系の民俗学的なものと分類学の合体である。民俗学というのは曖昧な分野なので、専門分野といっていいものがあるのかないのか、よくわからないが、分野的には広い荒野にぽつんといるよで、な感じだ。残り時間が少なくなっているので、分野の幅を狭めている。7月に長野市から信濃町まで旅をしたのは、分野の幅を狭めた後なので、目的がはっきりしていた。若いとき北国街道で運送の仕事をしていたという方に会うためだ。北国街道は佐渡の金を運び、直江津からスケトウダラを運んだ道だ。ボクの場合、上信越自動車道ができる以前のことすら知らないので、1945年の敗戦後すぐに現役だった人の話は貴重である。ただ、残念なことに85歳の壁を超えられなかった。収穫と言えばこの国道18号線、豊野町、飯綱町、信濃町にドライブイン的な飲食店や廃墟が多いことが確認できたこと。上信越道が開通して30年近くになるが、これも北国街道の遺構だろう。飯綱町、滝澤農園の滝澤さんに教わった、『さかえや飯店』で、昼ご飯を食べた。普通のラーメンとチャーハンだったが、とても普通に、満足度高い昼ご飯だった。

京浜急行の車内で、夫婦なんだろうか、サンマの話をしてた。「今年のサンマは昔のと比べると落ちるって専門家が言ってた。食べているエサが違うってさ」なんて話だ。まさか、そんなバカなことを言う専門家がいるはずはないと思う。昔のサンマとは2020年以前ということだろうか?この年まではいいサンマが普通に入荷してきていたのだ。でもこれと現在のサンマを比べるのは、愚か者というかバカ丸出しである。敢えて言うとバカそのものかも?過去の味覚の記憶は美化されがちなのだ。それを割り引いて考えなくてはいけない。それができない専門家は削除されるべきだ。もっと言えば、このような専門家は偽専門家である。写真は北海道青森県沖太平洋でとれたもので154g、2㎏で13入りであり、非常にうまかった。4㎏で40とか、それ以上軽いものもある。サンマはサイズでも味が違う。大きいほど値が高いが、150g 以上はその味(価値)は値段に見合っていない。今年は2㎏で9入りなんてものもあるがいくらするんだろう。要するに昔と同じサイズがとれているので豊漁である。今年のサンマの味は比べる必要などない、実にいいサンマである。ついでにサンマを養殖しようなんて人間がいるが、脳みそが溶けているのかも知れない。サンマがとれなくても我慢すべきだし、おいしくない年があってもいい。省エネこそ今やらなくてはいけないこと、自然破壊は極力避けるべし。

アドバイザーなどという大層なことをやらかす人間ではないので、あくまでもお手伝いだ。前回、新川漁港活性化協議会の打ち合わせをしているとき新川漁港周辺と新潟市民との接点を探す話となる。新川漁港は釣りのメッカであって、様々な釣りができる。でも釣りというだけではちっとも面白くない。そこでぽかりとボクの脳みそに浮かんだのが、新川漁港隣の五十嵐浜での生き物とのふれあいである。余談になるが、新川漁港、五十嵐浜の漁師さんは、皆実にユニークで、ある意味、自然相手に遊ぶのが好きだ。ボクもその方面では人後に落ちない。漁港内だけではなく、過去に地引き網での成功例があるが、ちょっと大がかりになる。もっと原始的、体当たりで遊ぼうぜ! となる。遊びながら学ぶのが真の学びだ、というのがボクの信念でもある。

ボクの珍魚度は学者的だということを述べたい。高級魚とか、そのへんに普通にいる魚に対して姿が面白いので騒いでいるのを見るのは嫌いである。「リュウグウノツカイはどれくらい珍しいんですか?」などという質問に、何年か前に魚類学者のSさんが困った顔で答えていた。リュウグウノツカイは、見た目が奇妙で珍魚といえなくはないが、それほどたいした珍魚ではなく、博物館などでの必要性はそんなに高くない。これに対して、今回、鹿児島県鹿児島市、大倉の久保さんが送って来てくれた画像のカドガワフエダイは、世界的に見て珍魚とは言えそうにないが、国内の魚類学者にとっては非常に貴重で、必要性も高い。だいたい国内での発見個体数が少なすぎて、生息域すらわかっていない。発見された個体の大きさを考えると、国内で再生産されているのか、どうかもわからない。カドガワフエダイの珍魚度は今のところ高いけど、温暖化でこれから国内においても増える可能性がある。先々ずーっと珍魚であり続けるかは微妙である。我がサイトの珍魚度は変化するのだ。確実にいえることは、今、大学、博物館にとってリュウグウノツカイはそれほど貴重ではないが、カドガワフエダイはとても貴重だ、ということである。一般の人は変わった形をしていないと、珍魚とは思わない。だから至って平凡な姿のカドガワフエダイは珍魚ではない。魚類学者と一般人にとっての珍魚・貴重な魚というの尺度はまったく違っている。

ボクが生まれた徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)には、「うどん屋」はあったけど、「そば屋」はなかった。あくまで麺の話ではあるが、県の真ん中あたりにある剣山に、近ければ近いほど「そば食文化」で、街中にくると「うどん食文化」だった。商店だったので、小学生くらいになると店が忙しいときは、歩いてすぐのところにある、『みどり屋』か、『飯田食堂』で、うどんか中華そばを食べた。配達で奥(一宇村もしくは端山村)に行くと、土釜のうどんを食べることが決まりだった。これがボクがときどき再現している理想のうどんである。理想の素うどんのうどんはゆでうどんであり、温めるとき、芯まで温めるが熱くしてはいけない。噛んで熱いと感じたら失格だ。つゆは煮干しでとったつゆで角があって、きれがよいもので、最初に塩気が来て、醤油のこくがあり、後からうま味の大波がくる。終いはサラリとした感じるのが理想だ。丼の中全体があまり熱くないのでするすると、短時間で麺をすすり込み、もういっぱい食べたくならないとダメだ。それにしても東京に真っ赤な「板つけ」がないのが悲しい。致し方なく、油揚げを刻んだが、「板つけ」やーい、とぞ思う。ついでに丼は1950年代以前のものだけど、今現在のうどん1前を入れるには小さすぎる。うどんは昔は間食のようなものであって、食事ではなかったのだ。これに合うゆでうどんがあるともっともっと理想的だ。

「茶がゆ」を初めて食べたのは、学生の時で、夏真っ盛りの晴れた日、多武峰談山神社(奈良県桜井市)から桜井駅まで歩いた、その途中で、だ。今、地図を見ると崇峻天皇陵のあたりだと推測する。当時は文献地図帖を持っての旅で、一本道を下りながら、ゆるやかに遭難したのだ。あのとき、農家らしい家の方が、大量の水と茶がゆを恵んでくれなかったら、死んでいたのかも知れない。当時は熱中症という言葉はなく、熱射病だった。あのときの水のおいしかったことと、梅干しと茶がゆが喉を通ったときの感覚は今でもおぼえている。以来、「茶がゆ」は夏の味である。さて、遅摘みの茶をしんなりさせて、釜で煎るタイプのお茶は、西日本各地にあるが、不思議なことに、ボクが勝手に「茶がゆ圏」としている奈良県、三重県西部、和歌山県のものは独特である。焙じる前の製法はわからないが、例えば同じ番茶と言われるものでも島根県伯太町(現米子市)のものとは似ても似つかないものだ。茶がゆ圏の番茶は苦味が強くどっしりと重い感じがする。伯太町の伯太番茶など限りなく軽く優しい味である。この、「茶がゆ圏」の古いタイプの番茶を探す旅がしてみたい。今回はその崇峻天皇陵近くで教わった通りのやり方で茶がゆをたいてみた。濃く煮だした奈良県十津川村の番茶に洗わない米を投入してたく、という奈良県ではもっとも一般的なやり方である。洗った米を投入すると、さらさらと軽い味になるし、茶色に染まる米粒の色も淡い。洗わないで入れると濃い茶色に米粒が染まり、かゆ自体が重い味になる。非常に濃く入れた茶の苦味が口にも喉にも残るが、この苦味が夏バテの薬なのではなかろうか。三重県伊賀市で会った赤目(三重県名張市)出身の大正生まれの女性は、「茶がゆ」は、「さいら(サンマ)」の丸干しと食べることが多かったという。当時の丸干しは木槌でよく叩かないと硬くて食べられなかったといが、この日合わせた三重県尾鷲市、『丸清北村商店』の丸干しは硬干しではあるけど、そのまま焼けば食べられる。

我が家の常備菜(作り置きの料理)、ヒジキ煮を作ってつまみ食いしながら、高野豆腐に芽ヒジキは合わないな、と思い、でも長ヒジキがなければ、これはこれでいいじゃないの、幸せならば♪ という気分になる。ハシキンメ稚魚(だしの素で充分)で作った煮干しだしが染みた高野豆腐がとてもうまいし、芽ヒジキだって、単体で食べるとおいしい。あんまり好きではない煮たニンジンだって、大人なのだから食べる。これに甘口の日本酒があるといいのだけど、昼酒をやる人生の隙間がない。地味なこと、目立たぬ」とをこつこつやるのは大変なのよ、と独りごちる。だいたい最近、甘口のおいしい日本酒がない気がする。さて、家庭料理は料理の最高位だと思っている。もちろん家庭がない人にとっても家庭料理(料理を作ること)は大切である。料理を作ることは、ケ(普段)を大切にするということだ。今や国内中がお祭りばっかりやっている。動物は危険が迫ると躁状態になることは、馴染みの猫と遊んでいるとわかる。この国、総理大臣から何から何まで頭が祭気分(躁状態)で、危ないんじゃないのかな? て思うほどだ。料理にもっと踏み込むと、能書きの多い料理ほどおいしくないものである。日常何気なく作る料理の方がいい。ちなみに祭がいけないのではなくて、ケがあるからハレ(特別な日)があるという重要な点が抜けているといいたいだけだ。ケがないと高価な料理のよさはわからない。贅沢を楽しむためにこそケを大切にすべきである。

12月2日、舵丸水産に京都府舞鶴市からメジナが来ていた。舞鶴は丹後半島、若狭湾の京都の集積地である。今季初の日本海メジナは京都府産ということになる。日本海でメジナ揚がり始めたら冬である。季節を感じるために水産生物を調べている。急激に消えて行く日本列島の季節だけど、まだまだ季節を感じる魚はいる。今回はあまりにも多くの魚を抱えているので、初メジナを買うわけにもいかなかったが、次は買おう。そして、今年も、日本海では荒天のメジナに悩まされるときが来た、のだ。漁師さんへ、少しでも高値でメジナが売れることを祈りたい。■舵丸水産は、一般客に優しいので、ぜひ近くにお住まいの方は一度お寄り頂きたい。

〈お母さんは、子供にどんどん自己流のヘンなものを食べさせるべきだと、私は思う。〉『木皿食堂』(木皿泉 二葉文庫)が、好きで、この部分だけなんども読み直している。すごいな、とか、いい言葉だな、とかではなく、本当にそうだと思っているためだ。食通とかこだわりのある人は、ボクには異星人に思える。たぶん冥王星よりも遠い星の人、M78星雲のもっと遙か彼方の人かも知れない。別にいたとしても気にしなくていいと思うけど、そんな異星人に惑わされず、自分自身に立ち返れといいたい。自分自身が本当に好きなもののこと、本当に知っているんだろうか?だいたいボクの嗜好、好みはコロコロコロとローリングストーンなのだ。ぜんぜん一定の好みというか“好き”がない。辛いのが好きなときがあったが、今現在はちょっとだけ辛いくらいがいいし、煮つけは去年まではあっさり味つけていたのに、今年はこてっこってなのである。みりんと砂糖を両方使うと、たとえばみりんを2倍入れるよりも甘くなるので両方使いしている。去年のボクが食べたら、甘過ぎらいバカヤロウ! と思うくらいに甘い。最近、魚屋に言わせると、煮つけを敬遠してカレイが売れないそうだ。お客に聞くと上手に作れない、と答えが返ってくるという。バカ言ってんじゃネー。それでいいのだ。煮つけは失敗してこそ上手になる。上手にならなくても失敗は人生の糧になる。食べられないくらいまずい魚の煮つけを作れる人は、逆に考えると料理の天才ではないだろうか。木皿泉ではないが、ヘンな料理の方が心に残る。心に残る料理を作ろうぜ。
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